———-aseeking
「知足常楽」
耳に馴染んだ言葉だが、
しばしば「現状に甘んじる」「向上心の欠如」と誤解されがちだ。
だがその本質を見つめる者は気づく——
これは人生を見通す知恵であり、
欲望に流されぬ澄んだ心の在り方なのだ。
この加速度的に進む時代、
私たちはかつてないほどの選択肢に囲まれている。
にもかかわらず、心はますます不安に駆られていく。
次の幸せはいつも「もっと大きな家」、
「もっと輝かしい肩書き」の先にあるかのように。
だが、気づいたことはないだろうか?
何かを手に入れるたび、
心の空洞がむしろ深まっていくことに。
人の欲望は、まるで底なしの谷のようだ。
満たしても、また次が現れる。
それは終わることがない。
世の中には、進む力が足りないわけではない。
足りないのは——
その途中で、
「今ある風景」に目を向ける余裕ではないだろうか。
陽光が一杯の茶を照らすその瞬間に、
心の安らぎを感じ取る力なのではないだろうか。
「知足」とは、決して追い求めることをやめることではない。
それは、
いつ止まるべきか、
何をすでに手にしているかに気づく感性である。
幸福とは、ゴールにあるものではない。
歩んでいるその過程、
日々のささやかな光を感じ取る心の中にある。
「常楽」とは、浅はかな楽しさではない。
それは内から湧き出る持続的で深い静けさ。
外から与えられるものではなく、
自ら選びとる境地なのだ。
目に映る世界が変わったのではなく、
あなたの見方が変わったのだ。
一杯の食事、朝のひととき、
ささやかな寄り添いに、
感謝の心を抱けるようになる。
「常楽」な人々とは
本当に「常楽」な人々とは、
多くを持っている人ではない。
「足る」を知る人たちである。
古の賢者たちは、すでにその知恵を刻んでいる。
陶淵明は俗世を離れ、田園に暮らし、
「菊を東籬に採りて、悠然として南山を見る」。
范仲淹は天下を憂いながらも、
内に深い静けさを湛えていた。
彼らの喜びは、心の中の調和と明晰さにある。
日本の俳諧師・松尾芭蕉は、
名利を離れ、旅に生き、自然を友とした。
「世に名を残さずとも、自然とひとつになれればそれでよい」。
一草一木のなかに在る意味を感じ取った。
西洋では、ソロー(H.D. Thoreau)もまた、
喧騒を離れ、ウォールデン湖畔での簡素な暮らしを選んだ。
自然と自分との調和のなかに、
本当の幸福を見出していった。
知足常楽とは

「知足常楽」とは、
生活を避けることではない。
生活に追われずに生きるという、ひとつの選択だ。
それは近道ではなく、修行の道。
欲望が顔を出すたびに、
立ち止まり、自分の心に問いかける——
「もうすでに、私は何を持っているだろう?」
真の幸福とは
浮世の華やぎが去ったあとでも、
あなたが穏やかな心を保ち続けられますように。
騒がしさの中で、
心の静けさとささやかな喜びを守れますように。
本当の幸福は、
「手に入れたとき」ではなく、
「すでに持っていたと気づいたとき」に、
そっと花開く——
音もなく、しかし長く香る。
コメント