———aseeking 2025/04/28(月)
理性と偏見のはざまで
人間の脳は真理のために進化していない
人間の理性は、しばしば過大評価されています。進化の長い過程において、人間の脳は真理を追求するためではなく、生存と繁殖を目的に最適化されてきました。私たちの祖先は、絶えず変化する環境の中で迅速な判断を求められていたため、脳は数多くの「近道」を発達させたのです。
心理学ではこれを「ヒューリスティック(直感的判断法)」と呼びます。これらは私たちに素早い決断を促す一方で、偏見や誤りを生み出す温床にもなっています。
認知バイアスの罠に陥る
プロスペクト理論は、私たちが利益を得る喜びよりも損失を恐れる傾向にあることを明らかにしています。投資において、人は損失への恐怖から狼狽売りを行ったり、チャンスを逃す不安から無謀な買いに走ったりします。
また、認知的不協和理論は、決断後にたとえ結果が悪くても、自らの判断を正当化し、誤りを認めにくい心の働きを示しています。さらに、群集心理によって、個人は独自の判断を捨て、多数派に従う傾向を強めます。
思考の癖がもたらす偏見の連鎖
偏見は無意識に強化される
ヒューリスティックな判断により、私たちは複雑な情報に直面した際、詳細な分析を放棄し、第一印象や単純なルールに頼る傾向を持つのです。こうして一度偏見を受け入れると、人は自己強化のループに陥ります。
自らの考えを支持する情報ばかりを集め、反する事実には目を背けるようになります。やがて偏見は、単なる思考の癖ではなく、個人のアイデンティティの一部にまで根づいてしまいます。
集団的偏見の危険性
さらに、人は無意識のうちに偏見を他者に伝播させます。言葉や態度、感情を通して偏見は拡がり、最終的には集団的無意識を形成するのです。
個人の偏見よりも、集団の偏見のほうがはるかに破壊的です。それは文化的な空気を歪め、社会を分断し、理性的な声をかき消してしまいます。
古代の智恵に見る人間性の本質
三毒に支配される私たち
古代の賢者たちは、この人間性の脆弱さをすでに見抜いていました。『華厳経』には次のように記されています。「過去に造りし諸悪業は、すべて無始の貪・瞋・痴によるものである。」
三毒———貪り(貪)、怒り(瞋)、無知(痴)は、人間の深層に潜む根源的な毒です。貪とは、より多くを手に入れたいと願う果てしない欲望です。瞋とは、自分に反するものを排除しようとする激しい怒りです。痴とは、世界の本質を見誤る無明を意味します。
歴史は三毒の繰り返し
歴史を振り返れば、戦争も宗教的対立も、日常の嫉妬や争いも、ほとんどすべてがこの三毒に起因していることが分かります。戦争は資源や権力への貪欲から生まれ、憎しみは異なる意見を許容できない怒りから発生し、盲信や愚かな選択は無知に起因しています。
実体験に学ぶ、思考の落とし穴
恐れがもたらした投資の失敗
私自身、こうした思考の癖によって、大きな決断を誤ったことがありました。数年前、ある投資の場面で、損失を恐れるあまり焦って株を売却してしまったのです。その結果、本来なら利益を得られたはずのチャンスを自ら手放してしまいました。

当時は「合理的な判断をした」と思っていましたが、今振り返れば、それは明らかに「損失回避バイアス」に囚われた行動でした。感情と向き合うことの大切さを、身をもって痛感した出来事でした。
感情の観察がもたらす変化
この経験を経て、私は感情の動きを注意深く観察するようになりました。怒りや恐れ、欲望といった感情が芽生えたとき、それを抑え込むのではなく、まず「気づく」こと。気づいた瞬間に、感情に支配されるのではなく、自分自身に戻るきっかけが生まれるのです。
気づきこそが清明への鍵
感情に気づくという小さな実践
本当の力とは、貪・瞋・痴を無理に抑え込むことでも、自分の偏見を否定することでもありません。それは「気づき」にあります。
貪欲が芽生えたとき、それに流されるのではなく、その存在に気づくこと。怒りが燃え上がったとき、感情に呑み込まれるのではなく、その根本を見つめること。無知が心を覆ったとき、無理に知らないふりをするのではなく、率直に無明を認めることです。
一瞬の清明が未来を変える
気づきとは、かすかでも確かな灯火です。思考や感情が生まれた瞬間に、ほんのわずかでも清明さを保つことができれば、私たちは三毒に引きずられることなく、一歩引いて自分自身を見つめることができます。
この一瞬の清明は、たとえ微細であっても、破局への道を断ち切るきっかけとなるのです。
清明は日常の中にある
繰り返しの中で選び直す力
人間は本来脆弱な存在です。しかし、それは決して絶望を意味しません。清明とは、劇的な変革ではありません。日々の中で、無数の瞬間において、何度も選び取り続ける小さな決断なのです。
光は、目覚めた一人の心から
救いは、常に「自分を見つめること」から始まります。そして、世界の光は、目覚めた一人ひとりの心から、静かに、しかし確かに広がっていくのです。
慌ただしい日々の中に、あなた自身の清明を見つけてみませんか?
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