Where Does Time Come From?Physics, Philosophy, and the Limits of Human Thought.
私たちが「以前」「外側」「原因」といった言葉を使うとき、
その瞬間すでに、時間の存在を前提にしています。
それはまるで、水の中で進化した魚が、水の外の世界を説明しようとするようなものです。
彼らの感覚器官は、最初から水中生活のために設計されています。
「なぜ“無”ではなく、“何か”が存在するのか。」
300年前、ライプニッツはそう問いかけました。
おそらく彼自身も、この問いが数世紀を経てもなお、人類の理性と想像力を執拗に苦しめ続けるとは思っていなかったでしょう。
科学者は観測を極限まで押し進め、
哲学者は論理を使い尽くし、
詩人は心の奥底まで掘り下げても、
それでも私たちは、この一見あまりに素朴な問いの前で立ち尽くしています。
ある天文学の講演会でのことです。
白髪の教授が、何気ない口調でこう言いました。
「ビッグバン以前には、時間は存在していません。
したがって、“その前に何があったのか”という問い自体に意味はありません。」
すると、会場後方にいた一人の男性が立ち上がりました。
「では先生、時間はいったいどこから現れたのですか?」
会場は静まり返りました。
教授は眼鏡を押し上げ、少し笑みを浮かべて答えました。
「もしそれが説明できたら、私はすでにノーベル賞をもらっているでしょうね。」
1、言語という牢獄――言葉が私たちを裏切るとき
私たちを縛っているのは宇宙ではなく、思考の枠組みそのものです。
物理学者ブライアン・グリーンは、こう言っています
「ビッグバン以前に何が起きたかを問うのは、北極より北に何があるのかを尋ねるようなものだ。
その問い自体が、存在しない枠組みを前提にしている。」
ここでひとつ、思考実験をしてみましょう。
目を閉じて、「無」を想像してみてください。
何が浮かびましたか?
真っ暗な闇? 真っ白な空白? 何もない広大な空間?
けれど、それらはどれも「真の無」ではありません。
闇は光が欠けた状態、空白は内容が欠けた状態、空間は物体が欠けた状態です。
つまり、それらはすべて「何かが存在しているが、ある属性が欠けている状態」にすぎません。
本当の「無」とは、空間も時間も物理法則もなく、
さらには「存在しない」という言葉すら成立しない状態なのです。
私たちの脳は、絶対的な無を理解できるようには作られていません。
因果関係と時空構造に「プログラム」された私たちは、
問いそのものの立て方から、すでに前提に縛られているのです。
古代ギリシャの詩人オルフェウスは、
このことをすでに知っていたのかもしれません。
彼の創世神話では、時間の神クロノスが一つの卵を生み、
そこから神々と宇宙が誕生します。
彼は「時間はどこから来たのか」を説明しません。
その代わりに、イメージによって問いを溶かしてしまうのです。
――時間そのものが、すべてを内包する卵である、と。
これは詩人の知恵です。
論理が行き止まりに達したとき、隠喩は語りえぬものを可視化します。
「時間」については、別の記事【時間は逆流するのか?宇宙が仕組む「人生の巻き戻し」】で詳しく書いています。
2、方程式の崩壊――特異点の前で科学が「フリーズ」するとき
2018年、宇宙マイクロ波背景放射の観測において、
いくつかの異常な「コールドスポット」が報告されました。
一時は「ビッグバン以前の別宇宙の痕跡か」との期待も広がりましたが、
後にそれは単なる統計的ゆらぎだと判明しました。
宇宙の起源を探る過程で、科学は驚くほど謙虚です。
約138億年前、特異点において私たちの理論は破綻します。
一般相対性理論は無限大の密度と曲率を吐き出し、
まるで「計算範囲を超えています」とエラーメッセージを出すかのようです。
別の比喩で言えば、
完璧な都市交通ルールがあるとしても、そのルール自体を「誰が作ったのか」と問えば、マニュアルは沈黙します。
それが、特異点以前における物理学の立場なのです。
スティーヴン・ホーキングはこう語りました。
宇宙の起源を問うのは「南極より南には何があるのか」と尋ねるようなものだと。
地球上では、すべての方向が北を向く。
「南極より南」という言葉自体が、意味を失うのです。
量子重力理論は、この壁を乗り越えようとします。
プランクスケール以下では時空が泡のように生成と消滅を繰り返し、
私たちの宇宙はその中でたまたま膨張に成功したひとつにすぎないという仮説もあります。
けれど、その量子ゆらぎの法則はどこから来たのでしょうか。
追究すればするほど、すべての問いは同じ壁――
「なぜ“有”なのか。なぜ“無”ではないのか。」に行き当たります。
「量子力学」を見つめ直したい方は、【アインシュタインが量子と出会った日――「虚無」から始まる宇宙の叙事詩】もあわせてお読みください。
3、説明の十字路――三つの視点が出会う場所
この壁の前で、人類は三つの陣営に分かれてきました。
科学、哲学、そして神学です。
それぞれが異なる倍率の望遠鏡で、同じ暗闇を見つめています。
科学
科学の陣営は、観測可能な宇宙を凝視します。
「特異点以前は分からない。しかし、その後のすべては精密に記述できる。」
彼らは量子重力の統一を目指しますが、問いは残ります。
――なぜ、この数式なのか? なぜ、別の数式ではないのか?
哲学
哲学の陣営は、概念そのものにレンズを向けます。
カントは『純粋理性批判』で述べました。
時間と空間は客観的な実在ではなく、
人間が世界を認識するための先験的形式である、と。
もしそうなら、「時間の始まり以前」を問うことは、
「OSをインストールする前に画面に何が映っていたか」を問うようなものです。
神学
神学の陣営は、最も広角の視点をとります。
キリスト教哲学者ウィリアム・レーン・クレイグは
「カラーム宇宙論的論証」を提示しました。
始まりをもつものは原因をもつ
宇宙は始まりをもつ
したがって宇宙には原因がある
時間が宇宙とともに始まったなら、
その原因は時空を超えた存在でなければならないというのです。
興味深いことに、いまこれら三つの陣営は対話を始めています。
2022年、バチカンで開かれた宇宙論シンポジウムでは、
物理学者、哲学者、神学者が同じテーブルにつきました。
勝敗を競うためではなく、互いの盲点を認めるために。
いずれの視点も、究極の真理を独占することはできません。
4、生き方としての応答――答えのない謎の前で
私たちにとってこの問いの価値は、答えよりも「向き合い方」にあるのかもしれません。
①畏敬をもつ探究者
科学作家マイケル・ギレンは、子どものころ父に尋ねました。
「星はどこから来たの?」
父は答えず、彼をプラネタリウムへ連れて行きました。
星空の下で父は言いました。
「私は全部の答えを知らない。
でも、“知らない”こと自体が一つの知識なんだ。」
その言葉が、彼の人生を形づくったのです。
②詩的に住まう人
詩人・谷川俊太郎はこう書きました。
「宇宙が膨張していること
私は最近になって知った
少し遅かったけれど
なぜかほっとした」
もし宇宙さえ変化し続けているのなら、
私たちの迷いや揺らぎもまた、この壮大な存在の舞踏の一部なのでしょう。
③責任ある行為者
哲学者ハンス・ヨナスは「責任の原理」を説きました。
宇宙の究極的意味が分からなくても、
自分の行為が他者や未来に影響を与えることは分かると。
理性的な生き方とは、虚無でも盲信でもなく、
責任を引き受けることなのです。
5、言語という綱渡りの上で

あの男性の問いに戻りましょう。
「時間はいったいどこから現れたのか?」
おそらく本当の答えは、こうです。
時間は“現れた”のではありません。
それは重力のように、独立した実体ではなく、
関係と変化を記述するための概念なのかもしれません。
質量が空間を曲げるとき、私たちはそれを重力と呼びます。
宇宙が変化し続けるとき、私たちはそれを時間と呼ぶのです。
神経科学によれば、脳には少なくとも三つの「時間システム」が存在します。
・ミリ秒単位の知覚時間
・概日リズム
・記憶と自己意識に基づく主観的時間
私たちが感じる「一つの時間」は、脳による統合の結果にすぎません。
であれば、宇宙スケールの時間もまた、
より深い現実の表れにすぎないのかもしれません。
物理学者ジュリアン・バーバーは、
「時間は存在しない」と主張します。
宇宙には「今」しかなく、流れの感覚は錯覚だと。
重要なのは、誰が正しいかではありません。
不確実性の中で、謙虚でいられるかどうかなのです。
結びにかえて
講演後、あの男性は言いました。
「歴史を教える一生を通じて因果関係を教えてきた。
それなのに“宇宙には前因がないかもしれない”と聞くと、少し寂しくなった」と。
しかし、その寂しさこそ、私たちがまだ意味を求めている証ではないでしょうか。
宇宙の起源を探求することは、民族が創世神話を語ることに似ています。
神話は、文字通りの真実である必要はありません。
それは人間が世界をどう理解し、自分をどう位置づけ、
運命とどう向き合うかを示すものだからです。
今日の宇宙論は、
21世紀の人類神話なのかもしれません。
ウィトゲンシュタインはこう言いました。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」
けれど沈黙とは逃避ではありません。
それはより深い注意の形なのです。
私たちは、時間がどこから来たのか、
宇宙がなぜ存在するのか、永遠に知ることはできないかもしれません。
それでも問い続けること、星空を見上げて息を呑むこと――
それ自体が、存在への敬礼なのです。
おそらく、答えの先にあるのは説明ではなく、理解です。
私たち自身が、この謎の一部なのです。
そして、それで十分なのです。



コメント