———aseeking 2025/04/24(木)
光を求め続けた先にある「疲れ」
ある時期、私は「輝き」という言葉に取り憑かれていました。
昇進、受賞、海外留学、起業の成功――
SNSに並ぶ知人たちのまばゆいハイライトに心を動かされ、「人生とは、光を放ち続けること」と信じ込んでいたのです。
だからこそ私は、語り、目立ち、立ち続けることに執着しました。職場では常に意見を述べ、人前に立ち、注目されるポジションを選びました。正直に言えば、「誰よりも前にいること」に満足感すら覚えていたのです。
しかし、そんな私がある日、突然燃え尽きてしまいました。
「燃え尽きた」あの日
三年前、ある大きなプロジェクトを任された私は、連日深夜まで働き、プレゼンでは誰よりも熱く語り、チームを引っ張りました。けれども、結果は思うように出ず、同僚たちとの関係もぎくしゃくし始めました。
ある日、自分の書いた提案書を否定された瞬間、頭の中が真っ白になり、言葉を失いました。
「自分は何のためにここまで頑張ってきたのだろう?」
家に帰っても心が休まらず、ふと鏡を見ると、目の奥には疲れきった自分が映っていました。

その時、年長の上司がかけてくれた一言が、私の心に深く沁みました。
「水が澄みすぎると魚が住まず、人が光りすぎると折れやすい」
この言葉をきっかけに、私は「和光同塵(わこうどうじん)」という思想に初めて意識を向けるようになったのです。
和光同塵という生き方
「和光」とは、光を内に収めること
「和光」とは、光を失うことではありません。
むしろ、必要な時に備えて、鋭さを穏やかに包み込むこと。
これは、自己否定や妥協ではなく、内なる力を知った者だけが持てる姿勢です。
派手に目立つのではなく、淡く温かく光る。
まるで、朝霧の中で柔らかく広がる陽光のように。
それはまた、「韜光養晦(とうこうようかい)」――光を包み、明るさを蓄えるという知恵でもあります。
私がその後、転職して選んだのは、一歩下がったポジションでした。
自分の名前が前に出ることはなくなりましたが、裏方として若手を支える役割に喜びを感じるようになったのです。
その変化は、決して「敗北」ではありませんでした。
むしろ、焦らず、無理せず、必要な時に的確な判断を下せる「静かな強さ」を育む時間だったのです。
「同塵」とは、塵の中で澄むこと
「同塵」とは、俗世の中にありながら、心の清らかさを保つということ。
SNSや世間の声に飲まれることなく、他人の価値観と距離を取りながら、なお共に生きる。
これは決して「避けること」ではなく、「染まらない」ための勇気です。
人間関係が複雑で騒がしい中でも、自分の価値を他者に任せず、静かに、ぶれずに歩む。
たとえば、ある会議で誰もが声を荒げていたとき、私はあえて沈黙を選びました。
一見、発言力を失ったように見えたかもしれません。
しかし、終わった後に一人の同僚がこう言ってくれました。
「あなたの沈黙が、一番心に残った」と。
まとめ:静けさの中にある真の力
今の時代、情報も表現もあふれています。
声の大きさが正義になり、目立つことが正解とされがちです。
けれど、「和光同塵」の人々は目立たずとも、信頼され、敬意を集めます。
それは、内に力を持ち、あえてそれを示さぬ知恵があるからです。
一見「無為」に見えて、実は「無所不為」
春の風のように草木を染め、夜のようにすべてを包み込むような生き方。
それは、争わず、騒がず、目立たず。
怯まず、染まらず、忘れずに生きる姿です。
私たちは、いつも光の中心である必要はありません。
時には塵の中で静かに佇むことも、人生における深い選択です。
鋭さを隠しても鈍らず、光を和らげても暗まず、塵に交わっても染まらず。
それこそが、真の覚醒。心が乱れず、光が自然と現れるということなのです。
まとめの一句:
「控えめな光こそ、最も遠くまで届く。」
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