Nothing From the Beginning: The Freedom of Letting Go.
数年前、私は人生で「すべてを失う」経験をしました。
大切な人間関係、何年もかけて築いたプロジェクト、未来への確信。それらが一夜で崩れ落ち、私はまるで全てを剥ぎ取られ荒野に放り出されたようでした。怒り、混乱、喪失感。夜空に向かって何度も問いかけました。
「なぜ、私から全てを奪うのか?」
ある眠れない夜、ふと開いた本の一行が目に留まりました。
「本来無一物、何処にか塵埃を惹かん。」
その瞬間、胸のどこかで薄い幕がそっと剥がれ落ちた気がしました。
私は「所有していた」と思い込んでいただけで、実のところ、一つとして本当に“自分のもの”だったものなどなかったのかもしれない。ならば「奪われた」と嘆くのは、幻が消えただけなのかもしれない。
それは慰めではなく、痛みと一緒に訪れる静かな真実。
そして気づけば、その言葉は「失うこと」を責めるのではなく、むしろ自由へと向かう扉でした。
所有とは、ただの一時的なレンタルにすぎない
生まれた日、私たちの手に
家の権利書や卒業証書、結婚指輪が握られていたでしょうか?──いいえ。
身体は親と食物から借りたもの、知識は先人の蓄えを譲り受けたもの。
富は社会の流れの中で循環し、「自分」という感覚さえ時と経験で変化していきます。
所有とは、実は世界から借りている使用権にすぎません。
家は大地から借りた場所。
愛は時間から借りたぬくもり。
才能だって、宇宙が一時的に預けてくれた贈り物。
私たちは永遠の持ち主ではなく、ただの一時的な管理人なのです。
だから理解すべきは「持つな」ではなく、「永遠に握りしめねばならない」という恐れを手放すこと。
期限のない契約など最初から結んでいなかったのに、返却の時が来たと嘆く必要はありません。
自問自答──空であることは、虚無ではなく自由である
Q:欲望や喜びは? もし全てが空なら人生は味気なくならない?
A:むしろ“空”だからこそ、色も音も光も映り込む。
欲望はエンジン、喜びは道の途中に咲く花。
禅はエンジンを止めよと言うのではなく、窓の反射を地面だと勘違いするなと教えるのです。
来たものは全身で味わい、
去るものにはそっと手を振る。
痛みは「光を壁に釘で留めておこう」とする心から生まれるのです。
Q:でも現実は所有なしに生きられないのでは?
A:ポイントは所有を否定することではなく、執着を手放すこと。
両手で水をすくえば喉は潤う、
しかし永遠に握りしめることは出来ない。
財も名声も愛も、求めていい。
ただし、それらは春夏秋冬のように巡り変わると知っていたい。
得た瞬間から、手放す準備ができている人。
それが、真に自由な人です。
Q:愛する人が去ったとき、涙は止まるの?
A:止まらない。泣くし、苦しいし、夜中に思い出が襲う。
「本来無一物」は冷たさの言葉ではなく、
暗闇の中でゆっくり灯る灯り。
出会えたこと自体が奇跡で、
別れとはその奇跡が生んだ必然の影。
愛は私の所有物ではなかった。
だけど確かに私を通り抜け、温め、形を変えた。
陽だまりは誰のものでもないが、干した布団には光の匂いが残る。
手放せるとは、無情ではなく、
流れを許す優しさなのだと思う。
「手放し」については、別の記事【自分に属さないものを手放す:人生の足し算と引き算の知恵】で詳しく書いています。
占有から共有へ──私の小さな転機

分かち合うことで、芸術はより深く心に残る。
昔の私は絶版本やレコードを集めるのが好きでした。
一枚手に入れるたびに「これで芸術を所有した」と思ったものです。
しかし引っ越しのとき、湿気でレコードが傷んでいるのを見た瞬間、胸が裂けるようでした。
まるで自分の一部まで失ったように思えたのです。
泣いたあと考えました。
私はレコードそのものが好きなのか?
それともそこに宿る音楽の魂が好きなのか?
答えは明らかでした。
音は記憶に刻まれ、媒体が壊れても消えない。
そこで私はレコードをデータ化し、友人や古本屋に譲るようになりました。
不思議なことに、誰かが受け取って喜ぶ姿を見ると、
所有していた時よりもずっと暖かい幸福が胸に広がりました。
それは「分かち合うことの喜び」。
以来、好きな物は買うけれど、最後にこう問いかけるようになりました。
「明日失っても、笑っていられるだろうか?」
その問いが、私を物の奴隷から、体験の主人へと変えてくれました。
日々の中で「軽やかに所有する」練習
山に籠る必要なんてない。
日常の中で少しだけ、心の使い方を変えてみる。
•美味しい料理:一口ずつ味わい、消えていくことも楽しむ
•褒め言葉:有難く受け取りつつ、永遠の証とはしない
•買い物:きっと失っても平気か、そっと尋ねる
•大切な人:期待ではなく、今ここでの温度を抱きしめる
これは冷淡になる訓練ではない。
持ちながら縛られず、去りゆくものを責めず見送るための稽古。
失うことが怖くなくなったとき、
私たちは初めて真剣に生き、深く愛し、遠くへ挑める。
なぜなら、追い求めているのはトロフィーではなく、生命の舞そのものだと知るから。
「本来無一物」と腑に落ちたとき、
あなたは空になるのではなく、軽くなる。
流水を握らないと決めたとき、
あなたは海をまるごと抱ける。


コメント