あなたの脳は、いまもあなたを“だましている”

転機と内面の変化
「りんごをりんごとして味わう」——静けさが、ここにある。

Your Brain Is Still Tricking You — The Hidden Illusions of Everyday Thinking

知っていますか。
私たちは毎日、自分の脳に“そっと誘導されながら”生きているのです。

テーブルの花を見た瞬間、脳は勝手に物語を始めます。
「この花、けっこう高かったよね」
「前にもらった花、写真撮るの忘れたな」
「ここに置けば映えるかも」
……でも、誰も教えてくれません。
その花がいま放っている香りや、葉の質感そのものを。

これは、あなたのせいではありません。
私たちは子どもの頃から「考える動物」として育てられてきました。
けれども、“いま、この瞬間を感じる方法”は、誰も教えてくれなかったのです。


一、禅師が言わなかった“本当の意味”

慧海禅師のいう「平常心」という言葉は、少し難しそうに聞こえますよね。

平常心」については、別の記事【平常心(へいじょうしん)】で詳しく書いています。

では、鏡を思い浮かべてみてください。

朝、落ち込んだ顔で鏡を見る。
鏡は「今日ひどいね」とは言いません。
夜、上機嫌で鏡を見る。
鏡は「最高に美人だよ」とも言いません。

鏡はただ、ありのままを映すだけです。
それが「平常心」です。

これは、「感情のない木偶になりなさい」という意味ではありません。
鏡のような心を持ちなさい、という教えなのです。

ローンは払う、仕事もする。
でも、心の鏡まで一緒にしわくちゃにしないこと。

荘子はこう言いました。
至人の心は鏡のごとし。迎えず、追わず。

来たものはそのまま扱い、終わったら手放す。
それが、本当の“上手な生き方”なのです。

でも——
どうやってやればいいのでしょうか。


二、私たちは“二次体験の世界”で迷子になっている

少し残酷なことを言います。
多くの人は“現実”を生きているようで、実は“思考の世界”を生きています。

りんごをかじる。
本来なら、甘さやみずみずしさ、歯ざわりを味わう——それが一次体験です。

けれども脳は別のことを始めます。
「このりんご、1個いくらだっけ」
「昨日のほうが甘かったな」
「写真撮ったら映えるかも」

この瞬間、あなたはもう“りんごを食べていない”のです。
“りんごについての思考”を食べている。
それが二次体験です。

以前、同僚に“不安のプロ”のような人がいました。
一緒に食事に行くと、
「ここ、1人当たり1500円か。微妙だな」
「あのテーブル、でかい商談かな」
「明日のプレゼン、やらかしたら終わる……」

食べ終わっても、料理の味をひとつも覚えていないのです。
結局、胃炎で入院しました。

医者が言った言葉が忘れられません。
「食べているのは胃だけど、あなたは脳まで働かせすぎている。
どこが壊れても不思議じゃないですよ」と。


三、“意地悪な記者”があなたに問いかける

さて、ここであえて意地悪な質問をしてみます。

「現実がこんなに大変なのに、どうやって平常心でいろというの?
ローンは? 子どもの教育費は?」

この問いの本質を見てみましょう。

あなたが本当に怖いのは——
ローンそのものではありません。

“返せなくなるかもしれない”という思考が作る恐怖です。

現実:毎月8万円を返す。→ 行動すればよい。

内側の暴走:「失業したら?」「物価が上がったら?」「私ってダメかも……」

そうやって思考が雪だるまのように膨らんでいく。
最終的にあなたを潰すのは、ローンではなく“想像の不安”なのです。

“平常心”とは、「現実を無視しろ」という意味ではありません。
ローンを返している最中にも、心の鏡まで震わせるなということなのです。

そしてもう一つの質問があります。

「“今を生きろ”なんて言っているけれど、
文章を書いている時点で思考してるじゃん。矛盾でしょ?」

その通りです。

私はいま、あなたに“月を指している”だけなのです。

禅ではよく言われます。
月を見るために指がある。
けれども指を見続けたら、月は見えません。

この文章は船です。
川を渡るための道具。
渡り終えたら置いていけばいい。
背負って歩く必要はないのです。


四、八百屋のおばちゃんが教えてくれたこと

市場で白菜を優しく確かめる八百屋のおばちゃんの姿。新鮮さと温かい日常の瞬間を切り取った写真。

私の家の近くの市場に、すごい八百屋のおばちゃんがいます。
いつも一番新鮮で、客が途切れないのです。

理由を聞いたら、笑いながらこう言いました。
「秘訣なんてないよ。うちの野菜は全部、うちの子みたいなもんだよ」と。

冗談だと思っていました。

ある早朝のこと、仕入れ帰りのおばちゃんが、しゃがんで白菜をひとつずつ触っていたのです。
ただ、丁寧に、やさしく触る。まるで赤ちゃんの頬を撫でるように。

葉がみずみずしければ静かにうなずき、
少ししおれていれば外葉をそっと外す。

その姿を見て気づきました。

この人は“野菜を売っている”のではないのです。
命と対話しているのです。

お客さんが「これ新鮮?」と聞くと、
「昨日雨が降ったから、ほうれん草が甘いよ」
「このナスは陽に当たりすぎて、ちょっと皮が固いね」
と答えます。

値段ではなく、記憶と手触りの物語を売っているのです。

市場の前にはいつも笑い声が絶えません。
安いからではありません。
おばちゃんの“いまここにいる感じ”が、ただ心地いいのです。

その場にいるだけで、ふっと心が軽くなる。

後でそのおばちゃんの息子さんが名門大学に合格したと聞きました。
みんなが祝うと、おばちゃんはこう言いました。
「ありがたいね。私は今日も野菜を触ってるよ」と。

揺るがない人は、悟ったから強いのではありません。
生活にしっかり根を張っているから、強いのです。


五、では、あなた自身に“引き金を引いて”ください

ここまで読んで、もし少しでも心が動いたなら——
ここからが一番大切なところです。

スマートフォンを置いて、今この瞬間、
次の3つの質問を自分に投げかけてみてください。

いま、この身体はどこにいる?
足の裏、手の感触、呼吸の温度——
ほんの一瞬でいいので、感じてみてください。

今日いちばん、私を苦しめた“思考”は何?
正直に、紙に書き出してみてください。

もしその思考が“事実ではない”としたら、私はこの1時間をどう過ごす?

この最後の質問は、あなたの人生を変えるかもしれません。

私もかつて、「私の文章なんて誰も読まない」と思い込んでいました。
けれどもある日、ふと考えたのです。
「もしそれが嘘なら、私はどうする?」

その瞬間、私はただ書くことそのものを楽しみ始めました。
結果として、その文章が一番読まれたのです。

結果を求めないとき、いちばん良い結果が生まれます。
“平常心”とは、まさにその状態なのです。


六、矛盾の先にしか“帰れる場所”はない

ここがいちばん不思議で、そして真実に近い部分です。

言葉を使って、言葉の外へ向かう
考えることで、考えの彼方へ行く
努力することで、“頑張らない状態”に至る

これは矛盾に見えます。
けれども、目覚めへの道はいつもこのような形なのです。

まず、自分が夢の中にいることに気づく。
そこからしか、目覚めは始まりません。

慧海禅師の「腹が減ったら食べ、眠くなったら寝る」という言葉は、
単に“動物的に生きろ”という意味ではありません。
“人としての本能に立ち返れ”という意味なのです。

お腹がすいたら食べる。
食べながら「太るかな」なんて考えない。
眠くなったら寝る。
布団の中でSNSをスクロールしない。

私たちが本当に疲れているのは、
仕事が多いからではありません。

バックグラウンドで動いている
“不要な思考アプリ”が多すぎるからです。

不安、後悔、自責——
それらがあなたのエネルギーの90%を食いつぶしています。

平常心とは、タスク管理画面で
ひとつずつ「終了」ボタンを押していくような行為なのです。


最後に——リビングに落ちた“鍵”の話

こんな話があります。

酔っ払いが街灯の下で鍵を探していました。
「ここで落としたの?」と聞くと、
「わからない。でもここが明るいから探しやすいんだ」と答えました。

私たちも同じです。
“思考”という明るい場所で、
“静けさ”という鍵を探しているのです。

けれども、鍵はそこにはありません。
あなたの“生活のリビング”に落ちているのです。

朝のコーヒーの苦味と余韻。
子どもの意味不明な笑い声。
「助けてほしい」と言えた勇気。
寝る前に聞こえるパートナーの寝息。

それらは、意味を飾る必要のない、
そのままで人生の意味を持つものなのです。

修行は山奥にはありません。
市場にあります。
会議室の中にあります。
子どもの泣き笑いの中にもあります。

そして——
あなたがいま、“りんごをりんごとして味わう”その瞬間にこそあるのです。

もしよかったら、ここで5分だけ、目的のない行動をしてみてください。

窓の外の木を眺める。ただ見る。
カップの温度を感じる。ただ触る。

思考をやめたとき、
あなたは初めて“本当に生き始める”のです。

その鍵は、ずっとあなたの手の中にあります。
ただ、握りしめすぎて見えなくなっていただけなのです。

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