二|本当に「執着を手放す」とは、忘れることではなく、何度も傷つかなくなることである

その後、私はずっと一つのことを考えていた。
なぜ同じ出来事であっても、すぐに気持ちを切り替えられる人がいる一方で、何年も引きずり続ける人がいるのだろうか。
一度転んでも、服についた埃を払い、そのまま前へ歩き出す人がいる。
一方で、いつまでもその場に立ち尽くし、自分を転ばせた石ばかりを振り返り続ける人もいる。
私は少しずつ気づくようになった。
私たちを本当に縛っているのは、出来事そのものではない。
心が、出来事の起きたあの場所から離れられずにいることなのである。
多くの人は、「執着を手放す」とは何も気にしなくなることだと思っている。
しかし、それは違う。
本当に執着を手放すということは、冷たくなることでも、無感覚になることでも、何もなかったふりをすることでもない。
「手放し」については、別の記事【自分に属さないものを手放す:人生の足し算と引き算の知恵】で詳しく書いています。
それはただ、自分を傷つけ続けることをやめることである。
私たちを最も深く傷つけるのは、多くの場合、他人ではない。
過去を何度も繰り返し再生し続ける、自分自身なのである。
こんな言葉がある。
「苦しみは、人生に二度訪れる。」
一度目は、出来事が起きたとき。
二度目は、それを何度も思い返すときである。
一度目は避けることができない。
しかし二度目は、多くの場合、自分自身の手で生み出しているのである。
私はそのとき初めて、心理学でいう「反芻思考」というものを本当の意味で理解した。
牛は飲み込んだ草を再び口へ戻し、何度も噛み直す。
人間は、過ぎ去った後悔をもう一度取り出し、再び味わい直してしまう。
一度の叱責。
一言の心ない言葉。
一度の失敗。
終わってしまった一つの関係。
出来事そのものは、とうの昔に終わっている。
しかし、心だけは昨日という時間の中に閉じ込められたままである。
身体は今日を生きている。
それなのに感情だけは、まだ過去にとどまり続けている。
その結果、本来なら終わっていたはずの物語を、自分自身が何度も書き足してしまうのである。
人を本当に消耗させるのは、生活そのものではない。
内なる消耗である。
人を本当に疲弊させるのも、プレッシャーそのものではない。
繰り返し続ける心の反応なのである。
その後、私は自分に一つの決まりを作った。
どうしてもつらい出来事に直面したときには、必ず立ち止まり、自分に三つの問いを投げかけることにしたのである。
私はこれを、
「三つの問いによる整理法」
と呼んでいる。
一つ目の問い。
「事実とは、何か。」
ここでいう事実とは、感情ではない。
推測でもない。
まして頭の中で作り上げた物語でもない。
すでに起こり、誰にも否定できない現実だけである。
たとえば、
上司に叱られた。
これは事実である。
上司は私を嫌っている。
これは事実ではない。
単なる推測である。
友人から返信が来なかった。
これは事実である。
友人はもう自分を大切に思っていない。
これは事実ではない。
感情が生み出した解釈にすぎない。
私たちが本当に苦しんでいるのは、多くの場合、事実そのものではない。
事実に対して、自分で付け加えた意味なのである。
出来事は一つしかない。
しかし感情は、それを十にも百にも膨らませてしまう。
二つ目の問い。
「自分にまだ影響を与えられることは何か。」
多くの不安は、一つの思い込みから生まれる。
私たちは、すべてを思いどおりにコントロールしたいと思ってしまうのである。
誰かに理解してほしい。
過去をやり直したい。
未来が自分の思い描いたとおりになってほしい。
しかし、本当に自分が変えられることは、それほど多くない。
今日を変えられるのであれば、昨日を悔やみ続ける必要はない。
次の一歩を踏み出せるのであれば、一歩前ばかりを悔やむ必要もない。
資料を一つ整理することでもよい。
一本のメールを書き直すことでもよい。
一言、謝ることでもよい。
もう一度やり直すことでもよい。
どれほど小さくても、自分にできる行動が残っている限り、人は完全に力を失うことはない。
行動こそが、不安に対する最良の薬なのである。
三つ目、そして最も大切な問い。
「自分の境界線は、どこにあるのか。」
人生における最大の消耗とは、自分には変えられないことへ力を注ぎ続けることである。
他人が自分をどう見るか。
すでに終わってしまった過去。
他人が下した選択。
それらは、いずれも自分の境界の外側にある。
本当に自分のものなのは、
今日の行動。
今日の姿勢。
そして今日の成長だけである。
一本の線を引くことを覚えなければならない。
線の外側にあることへ、これ以上自分を消耗させない。
それは現実から逃げることではない。
限りある人生を、本当に価値のあることへ返していくことなのである。
その後、私は以前にも増して空を眺めることが好きになった。
美しいからではない。
空は、生き方を教えてくれるからである。
空は決して雲を追い払おうとはしない。
黒い雲が現れたからといって、自分が汚れたと思うこともない。
ただ静かに、そこにあり続ける。
雲が通り過ぎることを許す。
風雨が訪れることも受け入れる。
そして、必ずまた晴れることを知っている。
本当に成熟した人も、それと同じである。
感情が湧くことは認める。
しかし、感情を住み着かせはしない。
失敗が起きることは受け入れる。
しかし、失敗に自分という人間を定義させはしない。
誰かに一度傷つけられることはある。
しかし、同じ出来事によって、何度も何度も自分を傷つけ続けることはしないのである。
三|本当の「容」とは、人を許すことではなく、自分自身を解き放つことである
もっとも、理屈は理解できても、それを実際に行うことは決して容易ではない。
ある年のことである。
親しい友人の一人から連絡があった。
その日の午後、私たちはある喫茶店で待ち合わせた。
席に着いた彼を見た瞬間、私は彼が以前よりひと回り痩せていることに気づいた。
目には血がにじみ、手元のコーヒーは、店に入ってから帰るまで一口も口をつけられることはなかった。
彼は静かに言った。
「もう限界なんだ。」
話を聞くと、職場でハラスメントを受けていたのである。
数か月間、自分が中心となって進めてきたプロジェクトが、発表直前になって同じチームの同僚に横取りされ、その成果まで自分のものとして報告されてしまったという。
それだけではなかった。
相手は責任を完全に回避するため、先回りして上司に対し、「彼の仕事が遅く、協力的ではなかったためにプロジェクトが遅延した」と説明していたのである。
白黒は完全に逆転していた。
彼は言った。
その頃は毎朝目が覚めるたびに、会社へ行きたくないという思いしか浮かばなかった、と。
自宅から会社までは40分ほどしかかからない。
しかし、その40分が40キロにも感じられたという。
エレベーターがオフィスの階へ近づくたびに胸は重くなり、
ガラスの扉を開ける前には、深く息を吸わなければならなかった。
彼は苦笑しながら言った。
「毎日、刑場へ向かうような気分だった。」
「頭の中にあったのは、たった一つの言葉だけだった。」
「どうして。」
「なぜ、私なんだ。」
そう話す彼の手は、終始小刻みに震えていた。
それは恐怖ではなかった。
怒りであった。
行き場を失った怒りだった。
もしあのとき私が、
「心を大きくして、天下のあらゆるものを受け入れなさい。」
などと軽々しく言っていたなら、それは傷口に塩を塗るようなものであっただろう。
本当に傷ついている人が最も聞きたくない言葉は、
「もう忘れなさい。」
「気にしなくていい。」
「手放せばいい。」
だからである。
こうした言葉は慰めのように聞こえる。
しかし実際には、当事者の痛みに寄り添ってはいない。
その日、私たちは午後いっぱい話し続けた。
私は彼に誰かを許すよう勧めることはしなかった。
ただ、一つだけ尋ねた。
「このままずっと怒り続けたら、最後に傷つくのは誰だろう。」
彼は黙った。
私は続けた。
「本当の『容』とは、相手が自分を傷つけたことを認めることではない。」
「起きてしまった現実を受け入れることである。」
「現実を受け入れて初めて、その現実に向き合うことができる。」
「そうでなければ、君の力はすべて『なぜこんなことになったのか』という問いに費やされてしまう。」
彼は長い間うつむいたまま何も言わなかった。
やがて顔を上げると、その目にわずかな光が戻っていた。
彼は言った。
「つまり……。」
「まずこの現実を受け止めてこそ、ようやく反撃する余裕が生まれる、ということか。」
私は笑ってうなずいた。
「そうである。」
「相手を容認するという意味ではない。」
「現実を受け入れるということである。」
「現実はすでに起きてしまっている。」
「今、本当に必要なのは怒り続けることではない。」
「行動を始めることである。」
多くの人は、「現実を受け入れること」と「現実に屈すること」を混同している。
しかし、この二つはまったく異なる。
現実を受け入れるとは、盤上に置かれた将棋盤を認めることである。
現実に屈するとは、その勝負を放棄することである。
前者は始まりであり、
後者は終わりである。
本当に力のある人は、まず現実を受け入れ、そのうえで現実を変えていく。
その後、彼は二つのことを実行した。
一つ目は、相手と言い争うことをやめたこと。
二つ目は、証拠を集め始めたことである。
数か月にわたるメール。
チャットの履歴。
プロジェクト資料。
修正履歴。
それらを一つひとつ整理し、時系列に並べ直していった。
どの提案を誰が出したのか。
どの作業を誰が担当したのか。
どの時点で誰が確認したのか。
すべてを客観的な事実として整理した。
その間、彼は誰とも感情的な言い争いをしなかった。
なぜなら、感情は事実には勝てないことを知っていたからである。
本当に自分を守ることができるのは、いつでも証拠だけなのである。
数日後、彼は正式に人事部へ申立書を提出した。
やり取りの中で感情的な言葉は一つもなかった。
そこにあったのは事実だけである。
その後、会社はプロジェクト全体について再調査を実施した。
結果として真相は明らかになった。
ハラスメントを行っていた人物は別部署へ異動となり、
プロジェクトの成果も、本来の担当者へ正式に帰属することが認められた。
しばらくして、彼は私を食事に誘ってくれた。
酒が少し進んだ頃、彼はぽつりとこんなことを言った。
私は今でもその言葉を忘れていない。
「以前は、本当に空が落ちてきたと思っていた。」
「でも後になってわかった。」
「空は落ちたりしない。」
「本当に崩れていたのは、自分の心だった。」
少し間を置いて、彼は笑った。
「今は、以前より少しだけ心が大きくなった気がする。」
「悔しさも受け止められる。」
「そして勇気も、その中に収められる。」
その瞬間、私はようやく「容」という言葉の本当の意味を理解した。
それは悪意を容認することではない。
傷つけた相手を許すことでもない。
怒りに心のすべてを占領させることをやめるということである。
憎しみで心が満たされてしまえば、
勇気も、
知恵も、
行動も、
そこには居場所を失ってしまう。
本当の「容」とは、誰かのためではない。
自分自身のためなのである。
それによって人は、感情に振り回される人生から、自らの人生を自らの手で導く人生へと少しずつ変わっていく。
本当に大きな心とは、傷がない心ではない。
傷を負ったあともなお、
人を愛することができ、
人を信じることができ、
そして前へ歩き続ける力を失わない心なのである。


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