どれほど大きな出来事も、所詮は心に映る影にすぎない

心の調和とリセット
どれほど大きな出来事も、心が広ければ人生の一場面となる。空へ伸びる山道は、心の器が広がることで悩みの重さが変わっていくことを象徴している。

The Biggest Problems Are Often Just Shadows in the Mind.

心が狭まれば、
塵ほどの事が胸を曇らせ、
心がひらけば、
山ほどの事も風のように過ぎてゆく。

世の沧桑を淡く眺めれば、
内なる湖は波立たず、
ただ静かに、ただ深く、
自らの形を保つ。

心を大きくして——
世界のすべてを抱きとめ、
心を虚しくして——
ひそやかな善の光を受け入れ、
心を平らかにして——
事の是非を澄んだまなざしで見つめ、
心を定めて——
変わりゆく時の流れに、
揺れず、抗わず、応えてゆく。

大事・難事は、
その人の“担う力”を映し、
逆境・順境は、
その人の“胸の広さ”を映し、
捨てることと得ることは、
その人の“智慧の深さ”を映し、
成るか敗れるかは、
その人の“続ける心”を映す。

——『加措活仏 人生智慧三部作』を読み、心に残ったこと。


一|人生には、「もう終わりだ」と思う瞬間が何度か訪れる

幼い頃であれば、それは試験の失敗である。

大人になれば、大切な面接、一つの仕事の成否、一つの恋の終わり、あるいは誰かから向けられた否定の言葉である。

その瞬間、人はそれが人生を変えてしまうほど重大な出来事であると思い込む。

まるでその日を境に人生は最悪の方向へ転がり落ち、二度と引き返せなくなるかのように感じるのである。

しかし何年も経ってから、時間という長い川の対岸に立って振り返ると、あれほど眠れなくなるほど苦しんだ「大きな出来事」の多くは、人生という大河に立つ一つの波にすぎなかったことに気づく。

人生を本当に変えるのは、その出来事そのものではない。

その出来事がどれだけ長く心に留まり、どれほど大きな場所を占め続けたかなのである。

私は次第に、ある言葉を信じるようになった。
世界が大きくなったわけでも、小さくなったわけでもない。 本当に変わるのは、自分の心なのである。

心が小さいときには、一粒の砂さえ山のように思える。 心が大きくなれば、一つの山でさえ、一粒の砂にすぎなくなる。

いわゆる「天が崩れ落ちるほどの出来事」とは、多くの場合、心に映った一つの影にすぎないのである。


社会人になって一年目、私は今でも忘れられない失敗を、大切なプレゼンテーションの場で犯したことがある。

その日の会議室には、各部門の責任者、取引先の代表者、そして普段はほとんど姿を見せない役員まで顔をそろえていた。

室内にはコーヒーと印刷した紙が混ざった匂いが漂っていた。
プロジェクターはかすかな駆動音を立てている。
全員の視線がスクリーンと私に集まっていた。

あれは、私が初めて単独で担当する重要なプレゼンテーションであった。

その数十分のために、私は丸二週間を費やして準備した。

PowerPointの一枚一枚を何度も修正し、すべての数字を繰り返し確認した。
冒頭の挨拶でさえ、自宅の鏡の前で何度も練習した。

私は自分に言い聞かせていた。
失敗してはならない。
絶対に失敗してはならない、と。

しかし、人は恐れていることほど現実になりやすい。

プレゼンが三枚目のスライドに差しかかったとき、私は画面に映る数字を見ながら、頭より先に口が動いてしまった。

本来なら「23%増」と言うべきところを、
「32%増です」
と言ってしまったのである。

言葉を発した瞬間、自分自身が固まった。

私が状況を理解するより早く、上司は顔を上げて私を見た。

会議室は突然静まり返った。

ほんの2秒ほどの沈黙だったが、空調の送風音さえ聞こえるほど長く感じられた。

上司は声を荒らげることなく、静かにこう尋ねた。
「その数字で間違いないか。」
たった一言であった。

決して強い口調ではなかった。
しかし、その一言は石のようにまっすぐ私の心へ落ちていった。
背中には一気に冷や汗が流れた。

私は慌てて数字を確認し、本当に読み間違えていたことに気づいた。

すぐに謝罪し、正しい数字へ訂正した。
会議はそのまま続いた。

周囲の人たちはすぐに提案内容そのものへ意識を戻した。

しかし、私だけは、あの2秒間から抜け出せなかった。

その後の説明は、ほとんど機械のように話し終えた。

上司が何を質問したのか。
取引先が何を話したのか。
今ではほとんど覚えていない。

覚えているのは、頭の中でずっとこう考えていたことだけである。
終わった。
もう終わりだ。
皆、私を未熟だと思ったに違いない。
上司は私を信用できない人間だと思ったに違いない。

ようやく築き始めた信頼は、この2秒ですべて崩れ去ったのだ、と。

会議が終わったあと、私は一人でデスクに座り、長い間動くことができなかった。

パソコンの画面は点いたままである。
メールは次々と届く。
オフィスでは同僚たちがいつものように話し、会議をし、電話を取っていた。

世界は何一つ変わっていなかった。 変わってしまったと思い込んでいたのは、自分だけであった。


その後まる一週間、私はほとんど一度もぐっすり眠ることができなかった。

夜中の二時になると、不意に目が覚める。
部屋は静まり返っている。
窓の外から、ときおり車が通り過ぎる音だけが聞こえてくる。

しかし、頭の中だけは少しも静かではなかった。
あの二秒間が、また始まる。
上司が顔を上げる。
会議室が静まり返る。

そして、あの一言。
「その数字で間違いないか。」
壊れたビデオテープのように、
一度。
また一度。
何度も何度も繰り返し再生されるのである。

人とは、ときにそういうものである。
現実は終わっている。
しかし、脳はまだ終わっていない。
出来事は過ぎ去っている。

それでも感情だけは、その瞬間に取り残されたままなのである。

後になって知ったことであるが、心理学ではこの現象を「反芻思考(はんすうしこう)」という。

牛は草を飲み込んだあと、それを再び口へ戻し、何度も噛み直す。
人間も同じである。

ただし、私たちが繰り返し噛みしめるのは青草ではない。
後悔、恥、悔しさ、そして恐れなのである。
出来事は一度しか起きていない。

しかし、それを何度も思い返すことで、心の中では何度でも起き続ける。

人を本当に苦しめるのは、失敗そのものではない。
同じ失敗を心の中で繰り返し再生し続ける、自分自身なのである。

あの頃の私は、十年後の自分の未来にまで勝手に結末を書き上げていた。
今回の失敗は昇進に影響する。
上司からの評価も下がる。

これからのキャリアにも傷がつく。
ひょっとすると、この会社にいる資格さえないのではないか。
そんなことまで本気で考えていた。
今になって振り返れば、少し滑稽である。

二十代の若者が、たった一度の言い間違いだけで、自分の人生すべてを頭の中で演じ終えてしまっていたのである。

後になってようやく理解した。
人間の最大の思い違いとは、「今日」を「一生」だと思い込んでしまうことである。

私たちは、目の前で起きていることが永遠に続くような気がしてしまう。 喜びもそうである。 苦しみもまた、同じである。

しかし、時間は決して一つの瞬間にとどまらない。
時間は誰に対しても、前へ進み続けることを求める。

今日どうしても越えられないと思っていた山も、いつの日か振り返れば、思い出の中の小さな丘になっているのである。


私の考え方を本当に変えたのは、時間ではなかった。

その後に起きた、ある小さな出来事であった。

あのプレゼンのあと、私はいつまでも後悔に浸り続けることはしなかった。

なぜなら、どれほど悔やんでも、一度口にしてしまった数字を消すことはできないと気づいたからである。

そこで私は、別のことへ意識を向け始めた。
すべての数値をもう一度確認すること。
補足資料を作成すること。
確認の流れそのものを見直すこと。

そして最後に必ず相互チェックを行う仕組みを自分に課すこと。

失敗が起きてしまったのであれば、同じ失敗だけは二度と繰り返さないようにする。

ただ、それだけを考えるようになった。
すると少しずつ気づいたのである。

上司は、あの言い間違いについて二度と口にしなかった。
同僚も誰一人として話題にしなかった。
皆、それまでと変わらず仕事を任せてくれた。

これまで通り一緒に企画を考え、新しい案件も担当させてくれた。

あの出来事をいつまでも握りしめていたのは、私一人だけだったのである。

ある日、給湯室で水をくんでいたときのことである。

半開きになったドアの向こうから、上司が別の管理職と話している声が聞こえてきた。
「彼はなかなかいい新人だ。」
「最初は少し緊張していたが、ちゃんと立て直し方を知っているし、振り返りもできる。」
「若いうちは失敗しても構わない。怖いのは、そこから成長しないことだ。」

私はその場で立ち尽くした。

あれほど一週間も眠れなくなるほど苦しんだ「大事件」は、上司の目には、新人が成長していく過程で誰もが経験する、ごくありふれた一場面にすぎなかったのである。

人生を決める判決書などではなかった。
終身刑を言い渡していたのは、私自身だけだった。

その瞬間、それまで真剣に考えたこともなかった一つのことを理解した。
出来事は、ひとりでに大きくなるわけではない。
それを大きく育ててしまうのは、自分の注意なのである。
傷口ばかりを見つめ続ければ、その傷はますます痛み続ける。

しかし、視線をもう一度前へ向けたとき、傷はようやく癒え始める。

人生で「大きな出来事」と呼ばれるものの多くは、このようなものである。
レンズを近づければ、それは高い壁に見える。

しかし、レンズを引いて眺めれば、それは長い人生の文章の中に打たれた、一つの句読点にすぎない。

人生の行き先を決めるのは、一度の失敗ではない。
失敗のあと、自分がどのような人間になろうとするのか。
それこそが、本当に未来を決めるのである。


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